〈信仰体験 3・11 震災・福光 「とびら」〉 海沿いの小学校と熱血教師 教育の道歩む誇り 父から子へ 2019年6月6日
2019.06.06投稿
〈信仰体験 3・11 震災・福光 「とびら」〉 海沿いの小学校と熱血教師 教育の道歩む誇り 父から子へ 2019年6月6日
【宮城県石巻市】「あっ、先生さ来たぞ」。廊下の先には教員の姿。ざわついていた児童たちが着席し、静まり返る。
教室の扉を開けるなり、教員は声を張り上げた。「こらあ、おだづなよー(ふざけるなよー)。廊下まで声さ、聞こえてたぞ」
温かみのある声色に、叱られているはずの児童は笑顔になる。
声の主は、瀬戸美三男さん(62)=河南常楽支部、支部長。子どもたちに体当たりでぶつかるテレビドラマのような熱血教師。「どんな子にも幸せになってもらいたい。熱意ってね、伝わるんだ。子どもは敏感だから」。約40年。ただただ、その思いで接してきた。
海沿いの雄勝小学校に赴任して2年目の春だった。東日本大震災の大津波は、小学校も家々も、町並みごと容赦なくのみ込んだ。学校から歩いて10分ほどの自宅も流された。
その時、瀬戸さんは翌週に予定された卒業式に向け、黙々と体育館のワックス掛けをしていた。「地割れが起きるかと思った」ほどの揺れが収まると外に飛び出した。校庭に集まった児童や居合わせた保護者、教職員らと裏山の神社に避難。駆け付けた地元消防団員の指示で、さらに山奥へと逃れた。
瀬戸さんは校長と山の中腹に残り、学校の最後を見届けた。迫り来る黒い大津波。バキバキと音を立てて破壊される校舎や体育館に、自然の猛威を見た。
寒さと空腹を越えて3日目の朝、ようやく家族と再会。無事な姿にひとまず安堵した。携帯電話が流され、連絡が取れず、お互いに最悪の状況を覚悟していたという。
支部婦人部長だった妻・三津子さんは、発災直後から来る日も来る日も、同志の安否確認や励ましに奔走していた。瀬戸さんも同志のもとを訪ねては、不安や悩みを聞き、寄り添った。
震災から2年後の夏の夜。妻が急に「頭が痛い」と言って倒れ込んだ。脳幹出血だった。救急搬送されたが、そのまま眠るように息を引き取った。
あまりに突然すぎた。家から明るさが消えた。妻に任せっ放しだった炊事や洗濯。それを黙々と行いながら、亡き妻への思いが湧いてくる。一緒に出掛けたい場所や、ゆっくり語り合いたいことは山ほどあった。
高校3年(当時)の息子・啓太さん(24)=男子部ニュー・リーダー=も悲しみに暮れた。目標を見失い、大学入試を断念。瀬戸さんは、教育者として、父として、わが子に希望を与えてあげられないことが情けなく、悔しかった。
「冬は必ず春となる」(御書1253ページ)。瀬戸さんは担任した卒業生たちに、この一節を書き送ってきた。“どんなに厳しい試練に遭おうとも、幸せの春を信じて乗り越えてほしい”と。
今度は、この一節が、瀬戸さんを支える。“まさに今の自分と息子が、この通りに生きないでどうする!”。そう思えた時、何かが吹っ切れた。無心になって題目を唱え始めた。
「お母さんにね、励ましてもらって今があるの」「本当に、私も救われたのよ」
啓太さんを励ましに訪ねてくれたのは、何人もの学会婦人部員だった。多くの人が涙ながらに語ってくれた、啓太さんの知らない母の一面。“お母さんは、こんなにも人に尽くしていたのか”。懸命に祈る父の姿にも心を動かされた。
小学校教諭の父、幼稚園教諭だった母。啓太さんは、両親と同じ「教育の道」を歩もうと決めた。大学受験に挑戦し合格。学生時代は学業の合間に、復興ボランティアの活動も。卒業後は「子どもが大好き」で保育士に。今年で2年目になる。啓太さんは今、恩に報いる人生をと誓う。
2017年(平成29年)3月、プレハブ仮設校舎で雄勝小学校最後の卒業式が行われた。この日は、瀬戸さんの定年退職の日でもあった。
震災後、地元中学校の教室を間借りした2年間に続いて、仮設校舎で過ごした4年の歳月。一日一日が目まぐるしかった。震災で家を失い、散り散りになった子どもたち。彼らの笑顔を取り戻すために、未来を開くために、悪戦苦闘した日々だった。
「子どもの幸福のために」教育に全魂を注いできた創価学会の三代会長。その一端に連なれたことが無上の誇りと心から思う。
定年後の今も請われて、海に近い小学校で教壇に立つ。「昨日よりも成長した子どもたちに出会える喜び」に胸を躍らせ、教室の扉を開ける。