〈信仰体験〉 創業41年の美容室は憩いの場 2019年6月5日 夫が教えてくれた後悔しない生き方 高齢者の訪問活動を11年

〈信仰体験〉 創業41年の美容室は憩いの場 2019年6月5日
夫が教えてくれた後悔しない生き方
高齢者の訪問活動を11年

 【北海道紋別市】開業41年を迎えた「なかの美容室」を営む中野民子さん(71)=汐見支部、支部副婦人部長=の笑顔は、優しくて、まぶしい。人のために動くと命が弾むという。「考えるよりも先に体が動くの。毎日が充実してるってことだね」とニッコリ。仕事や学会活動で多忙な中でも、市の地域ネットワーク推進協議会の協力員として、高齢者の安否確認を。自治会副会長として、地域行事を運営する。面倒見がよく、かゆいところまで手が届くのは、11年前に亡くなった夫・三郎さんが、病床で教えてくれた生き方があるから――。

おせっかい精神
 「なかの美容室」に常連客から電話が入る。「来週火曜の昼は空いてる?」
 中野さんは予約を受け付けると、そのお客の友人にも連絡して、“女子会”をセッティングする。「みんなにも会いたいと言っていたので」
 当日、店は一人の常連客を中心に、集まった友人らと世間話で大盛り上がり。その後、自宅のリビングに招き、“2次会”が始まることも。
 また、地域ネットワーク推進協議会の協力員として、1人暮らしの高齢者宅を毎月2度、訪問し11年になる。その途中で“あの人は元気かな?”と、見回りの対象ではない夫婦のことが気になることがある。そんな時は、「カレーを作り過ぎちゃって」とお裾分け。
 「『元気?』とか『会いたいね』とか、電話一本するのも、おっくうになる時がある。でも、この年齢になると、お互いにいつ体調を崩してもおかしくない。後々、後悔はしたくなくて。おせっかいかもしれないけど、私にできることをしていきたいんです」
 中野さんは、山間部の西興部村の農家の生まれ。10歳の時、子どもの幸福を願う母と共に入会する。
 野良着姿ばかりの母が、美容室で髪をアップにした時に見せる笑顔がうれしくて、「将来、美容師になって、お母さんをきれいにしたい」と幼心に思った。
 中学卒業後、地元の美容室で、住み込みで働いた。24歳の時、三郎さんを入会に導き、結婚。2人の子宝にも恵まれた。
 1979年(昭和54年)に念願かない、「なかの美容室」を開業。その直後、夫の勤務先が倒産。三郎さんは、社長の連帯保証人だったため、約1千万円の負債を抱えた。
 三郎さんは、社員を守るために新しい会社を設立。愚痴一つ言わず、朝から晩まで働いた。純朴な三郎さんを、地域の人も信頼し、支えてくれた。深夜、御本尊の前で一人、背中を震わせる夫に、中野さんは妻として同志として、寄り添っていこうと誓った。
 十数年かけて、借金を返済。三郎さんは、地域の人に恩返しがしたいと自治会の会計を務めた。また、「NHKのど自慢」で優勝するほどの歌唱力を生かし、日本アマチュア歌謡連盟(NAK)の支部長として尽力した。
 さらに、自宅の倉庫を改造して、カラオケの機材を設置。愛好会を立ち上げ、自ら講師に。30人の生徒を受け持つまでになった。美容室にまで歌声が響き、笑い声が絶えなかった。そんな幸せがいつまでも続くと思っていた。

確かめたいこと
 2006年(平成18年)10月、三郎さんが変なせきをしていた。心配し、病院へ連れて行く。医師から「末期がん」と告げられた。
 帰りの車中、「病気になって、ごめんね」と三郎さん。そっと夫の手を握る。「信心で絶対に乗り越えようね。私も一緒に闘うから」。互いの笑顔に涙がにじんだ。
 薬の副作用で、髪は全て抜け落ち、ステロイド薬の影響で、ムーンフェース(むくんだ顔)に。それでも弱音をはかない。口から出るのは、「後悔しない生き方をしよう」という覚悟と、「ありがとう」との感謝の言葉だった。
 題目帳には「120分」「180分」と、その日の唱題時間を記す。聖教新聞を熟読し、「池田先生はすごい方だね」と。
 確かめたいことがあった。医師から手の施しようがないと言われた病状の中で、どんなことを祈っているのか――夫の答えは明確だった。「病気が治る、治らないじゃない。俺は諦めない人生を貫きたいんだ」と。
 師の「病気を患い、病苦と闘っていくことで、人間は人生の意味を求め、生命の尊さを学び、いちだんと充実した人生を開拓できる」との言葉を、身をもって示してくれた――。
 三郎さんが1年9カ月の闘病を終えたのは、08年夏のこと。中学校の同窓会に、医療用の酸素ボンベを付けた車いすで参加した。恩師や級友たちのテーブルを一つ一つ回って、感謝を伝えた。その1週間後、「お母さん、ありがとう」とほほ笑み、家族らと談笑しながら、すっと眠るように息を引き取った。
 「夫は、最後の最後まで、病に負けなかったんです」
 ◇ 
 美容室の常連客に「歌声が聞こえなくて、寂しいね」と言われたのは、09年春のこと。店は再開したものの、カラオケ愛好会は休止していた。たまに会場に足を踏み入れると、机や機材はほこりをかぶっている。寂しさと悲しさで、胸が痛くなった。“講師もいない。生徒をまとめるのも、私には無理……”
 途方に暮れていたある日、演歌歌手をしている夫の知人と偶然、再会。夫が背中を押してくれたような気がして、思いきって事情を話すと、快く講師を引き受けてくれた。参加者は徐々に増え、20人ほどに。次第に以前のような活気を取り戻した。
 また、介護施設への慰問活動やチャリティーコンサートも開催。三郎さんが、“みんなが楽しめるように”と言っていたように、歌だけでなく、踊りも取り入れ、会場全体で楽しめる演出に。施設から「また来てほしい」と好評で、毎年のように行っている。
 その頃、市の地域ネットワーク推進協議会の協力員に。4年前には、女性として初の自治会副会長になった。現在、身近な一人に寄り添い、地域をくまなく歩いている。
 「世話好きで、みんなのことが大好きな夫でした。『言い残した“ありがとう”がないようにしたい』と。その通りの最期だったから、人生に悔いがなかったんだと思います。これからも、夫の分まで、感謝の心をもって、人に接していきたい。それが、夫と共に生き続けることだから」