〈紙上セミナー 生活に生きる仏教〉 限りある「生」を最も豊かに 2019年6月1日
2019.06.01投稿
〈紙上セミナー 生活に生きる仏教〉 限りある「生」を最も豊かに 2019年6月1日
悲しみを希望へと変革する仏法哲理
在宅医療で「看取り」に携わる
医師 栁生岳志
皆さんは、「人生の最期をどこで迎えるか」について、考えたことはあるでしょうか?
近年、患者さんが、自宅などの住み慣れた環境で安らかに最期を迎えるための医療が注目される中、「在宅医療」の重要性が高まっています。これは、患者さんの自宅に医師が訪問して行う医療行為で、自宅で普段通りの生活を送りながら、病院と同じ治療が受けられます。
実は厚生労働省の調査によると、戦後間もない1951年(昭和26年)ごろは、亡くなった方のうち8割が自宅で最期を迎えたそうです。つまり、自宅で家族に見守られながら臨終を迎えるということが一般的だったのです。
その後、自宅で亡くなる方の割合は減少し、代わって、病院などの医療機関で亡くなる方が増加。2000年(平成12年)以降、患者さんの8割が、人生の最期を病院で迎えているといわれています。
厚労省は06年から、患者さんが自宅や施設で家族に見守られながら人生最期の時を迎えること、すなわち「看取り」を推奨しています。
私自身、16年前に北九州市内でクリニックを開業して以来、医師として在宅医療に携わる中、多くの方々の「看取り」に立ち会ってきました。
大切な家族の最期に向き合うことは、「生きること」の意味を捉え直す貴重な体験になります。また、遺された家族が、故人の「生」を自らの「生」に重ねることで、自らの日々により深い意味を見いだして生きていく、豊かな人生構築の出発点にもなると実感します。
次なる生へ出発する瞬間と
私が「看取り」に立ち会った患者さんの一人に、70歳のYさんがいました。
Yさんは、病院で医師から肝臓がんの末期であることを宣告され、治療のすべがないことを知り、「それなら人生の終末は自宅で家族と過ごしたい」と希望。病院からの紹介で、私が訪問診療を担当することになりました。
宣告から2カ月後、Yさんはご家族に看取られて、自宅で静かに息を引き取られました。
実は、Yさんが亡くなる数時間前、奥さまが「もっと早く主人の病気に気付いていたら」と、泣き崩れました。すでに末期の状態であったとはいえ、あまりにも早く別れの時を迎えようとしていることに、ご家族の悲しみは言い尽くせないほどだったのです。
私は、ただただ寄り添うような気持ちで、そばにいるのが精いっぱいでした。この時、少しでも励みになればと、私自身の死生観を語りました。
――人生の最終章に立ち会えるということは、大きな意義があるということ。人の人生には終わりがあるが、それは「次なる生への出発」でもあるということ。そして、次の生へと「出発する瞬間」に立ち会えることは、とても深い縁を結んでいるということ。
ご家族の悲しみがいくらか和らいだように感じる中で、Yさんは穏やかに亡くなられたのです。
求められる確かな生命観
大切な家族や身近な人の死に接することほど、悲しいことはないでしょう。仏法には、そうした受け入れがたい現実を、生きる希望へと変革する哲理が示されています。
日蓮大聖人は、夫に先立たれ、愛する息子をも亡くした南条時光の母を、こう励まされました。
「南無妙法蓮華経と唱えられて、亡き夫君と御子息と同じ所に生まれようと願っていきなさい。一つの種は一つの種であり、別の種は別の種です。同じ妙法蓮華経の種を心に孕まれるならば、同じ妙法蓮華経の国へお生まれになるでしょう」(御書1570ページ、通解)
今世で出会った家族は、妙法の力によって、必ず次も同じ所に生まれ、再会できる――この仰せが、時光の母にとって、どれほど励みになったことでしょう。
仏法では、三世の生命を説きます。死によって今世の生命は終わっても、生命そのものがなくなるわけではありません。そのことを心から確信する時に初めて、いかなる状況にあっても前を向いていける希望を、現実の中に見いだすことができるのだと思います。
医療現場の最前線に立つ者として、人の死に向き合うたび、そうした「確かな生命観」の必要性を感じずにはいられません。
父が示した臨終の心構え
私の父は84歳で亡くなりましたが、生前、「死ぬ時は、自宅の御本尊様の前で」と、折あるごとに語っていました。
父が亡くなる直前のある日、入所していた施設から「お父さまが息苦しそうなので、すぐに来てほしい」との連絡が。急いで駆け付けると、心不全と見て取れる状況でした。そのまま病院へ搬送し、治療を開始しましたが、病状は悪化するばかり。父も「自宅に帰る」と答えたので、主治医とも相談した上で、父を自宅へ連れて帰り、御本尊の前に寝かせました。それから父は5時間ほど唱題し続けた末、私たちに看取られる中、題目を唱えながら、穏やかに息を引き取っていったのです。
臨終の少し前、父は法華経にある「如来如実知見三界之相無有生死」についての「御義口伝」(御書753ページ~754ページ)の一節を口にしました。これは、永遠の生命を自覚した時に、「本有の生死」に生きる大境涯を得ることができると教えられた御文ですが、父は晩年、毎日のように、この一節を私に講義してくれました。自分の死期の近いことを悟り、御書を拝しながら、その一節を自身の生命に刻み付けていたのかもしれません。
死に臨む父の心構えを知り、また、父が示してくれた新たな生への旅立ちの姿に、深く感動したことを覚えています。
御書に「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(1404ページ)とあります。「生死の問題」は誰人も避けられません。ゆえに、死を忌避することなく見つめてこそ、真に幸福な人生を確立することができます。
池田先生は語っています。
「『死』を意識することが、人生を高めることになる。『死』を自覚することによって、『永遠なるもの』を求め始めるからです。そして、この一瞬一瞬を大切に使おうと決意できる」
「いかに死ぬか」と問うことは、「いかに生きるか」と問うことに通じます。だからこそ、善い生き方の指針を持つ人は、今世の生を最も充実させていけるのではないでしょうか。
患者さんや関わる方々が豊かで幸福な生を歩んでいくための善き伴走者になれるよう、妙法の医師として、最高峰の生命哲学を胸に力を尽くしてまいります。
【プロフィル】やぎゅう・たかし 北九州市内のクリニックで院長を務める。医学博士。59歳。1960年(昭和35年)入会。福岡・小倉南栄光区長。九州ドクター部書記長。
〈コラム〉 生老病死
御書には、「四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」(740ページ)とあります。「四面」とは、法華経において、生命尊厳の象徴として登場する宝塔を形づくる四つの面を示します。日蓮大聖人は、宝塔の四つの面とは生老病死のことであり、この四つの相をもって、われらの一身の生命の宝塔を荘厳するのだと仰せです。
一見、マイナスでしかないように思われる老いや病、そして死といった四苦さえも、自身の人生を荘厳するプラスの糧へと昇華できる妙なる力が、人間の生命には内在していることを教えられています。
私たちに引き当てれば、例えば、老いを「衰えの時期」と捉えるか、「人生の総仕上げの時」と捉えるかで、同じ時間を過ごしても、人生の豊かさは変わるでしょう。
妙法を根本に生き抜く時、あらゆる苦しみを乗り越え、自身の「生老病死」の姿を通して周囲に歓喜と希望を送っていける、最も価値ある人生を送ることができるのです。