〈虹を懸ける〉 池田先生とインド③=完 2019年5月26日

〈虹を懸ける〉 池田先生とインド③=完 2019年5月26日

〈虹を懸ける〉 池田先生とインド③=完 2019年5月26日


ご多幸あれ! 和楽あれ! 福運あれ! 勝利あれ!――インド最高会議に出席し、メンバーを激励する池田先生(1992年2月15日、ニューデリーで)

 

大聖哲はいわれた
「一は万が母」と
「万」の多数も
「一」から始まる
苛烈な太陽の
光を防いで
木陰の安息を
約束する菩提樹
その千枝万葉も
一根より生ずる
社会に深く
根を張った
智慧の一人の重みは
千人 いな万人にも
匹敵する

 

池田先生は1992年のインド訪問の折、長編詩「月氏の曙 地涌の讃歌」を詠み贈った(2月8日)。

12日間の滞在中、先生は、ベンカタラマン大統領、シャルマ副大統領、インディア・インタナショナル・センターのカラン・シン会長、ガンジー記念館のパンディ副議長、ラダクリシュナン館長らと会談。また、非暴力デリー会議から最高特別会員称号が、国際科学文化・意識センターからはグローバル意識開拓賞が贈られている。
先生はそうした激務の中、寸暇を惜しんで同志の激励に心を尽くした。その励ましは、一人一人の胸中に信心の確信を打ち込み、広宣流布へ行動を促していった。
ディネーシュ・バトナガルさん(副壮年部長)は当時、創価班の一員として、整理・誘導などの任に当たっていた。
ある日、先生一行が宿泊するホテルのロビーで、先生から「ご苦労さま!」とねぎらいの言葉を掛けられた。
さらに先生は、バトナガルさんの目をじっと見つめて「何があっても、明るく朗らかに」と。
「ほんの一瞬の出来事でしたが、先生の真剣なまなざしと力強い声は、今も鮮やかに胸に刻まれています」
元来、気が弱く、ささいなことですぐに思い詰めてしまう性格だったが、先生の言葉を支えに、その後の苦難を乗り越えていく。
それから10年余りが過ぎ、男子部から壮年部に進出。支部長の任命を受けた。しかしその直後、不況のあおりを受け、リストラに遭ってしまう。
初めは思い悩んだものの、「今は“蔵の財”ではなく、“心の財”を積む時だ」と一念を定め、学会活動に徹した。
訪問・激励に歩く中、同じように仕事をなくした同志が大勢いることを知る。
バトナガルさんは、その一人一人の名前を紙に書き出し、仏前に掲げた。人数は全部で15人。最後に自分の名前を書いた。
毎日、メンバー宅を訪ねては、一緒に唱題し「法華経の兵法で勝とう!」と誓い合った。
やがて、次々と就職が決まり、ついに名前を挙げた全員が新たな仕事を見つけた。
共に苦境を勝ち越えた同志は現在、その多くが広布の最前線で活躍する。
「振り返れば、失職したことにも深い意味がありました。仕事や経済苦で悩む人に心から寄り添えるようになれたからです」
何があっても、明るく朗らかに――師がまいた一つの“励ましの種子”が、幾つもの“勝利の大輪”を咲かせている。

 

一人立て

日蓮大聖人の御聖誕770年の節を刻んだ92年2月16日。翌日の午前中にインドをたつ池田先生にとって、メンバーとじっくり時間を共にできる最後の日である。
この日、インド創価学会(BSG)の同志が待望していた、先生のインド文化会館初訪問が実現。各地の代表が集い、勤行会が開かれた。
スピーチは冒頭、即席の質問会に。先生は、ユーモアを交えながら一つ一つ丁寧に応答。そして、参加者に呼び掛けた。
「唱題はあらゆる苦しみを、すべて希望の前進へのエネルギーへと転じていく。わかってみれば、悩みは、幸福に不可欠の糧でさえある。ゆえに、みずから目標の山をつくり、山をめざし、山を乗り越えていくのが、真の信仰者なのである」
「一人が本当の信心に立ち上がれば、一家も一族も、先祖も、皆、必ず救いきっていける。その一人になることである。その一人を大切に育てることである」
ミヌ・サリーンさん(圏婦人部長)はこの日、白蓮グループとして、先生を会館で出迎えた。
「実は当日、電気の不具合で会場の冷房が効かなくなってしまいました。先生はそうした中でも、勤行会を延長されるなど、最後まで渾身の指導を続けてくださったのです」
女子部時代に師弟の原点を刻んだサリーンさんが苦難に直面したのは、それから14年後のこと。職場を解雇されたショックで、夫がうつ状態になってしまったのである。
2人目の子を身ごもっていたサリーンさんは、不安にさいなまれる夫を支えながら、「経済革命」「家族の健康」「無事出産」を懸けて、懸命に祈り続けた。やがて、その姿を見ていた10歳の長女が、唱題を実践するように。夫も少しずつ、落ち着きを取り戻していった。
サリーンさんはその後、元気な女の子を出産。夫も再就職を果たし、壮年部のリーダーに。長女は女子部の本部長を務め、次女は未来部の人材グループではつらつと活動。信心継承の模範を示している。

 

青年の時代

BSGのビシェーシュ・グプタ議長も、あの日の勤行会に参加した一人である。
「池田先生が入場した途端、場内の雰囲気が一変しました。師匠の慈愛に包まれた勤行会は終始、笑いが絶えず、参加者は皆、広布への決意を深くしました。その後、インドでは折伏・弘教や個人指導にも熱が入り、広布の大河の流れは一段と開かれていきました」
94年夏、研修会で日本へ。その折、先生から直接託された「これからは青年の時代だよ。アジアの夜明けの時代だ」との一言を心に刻んでいる。
男子部本部長を務めていた2008年にリーマン・ショックが吹き荒れ、仕事を失った時も、グプタさんは信心根本に立ち上がった。“今こそ”との思いで、教学研さんに励み、先生の著作も読破していった。
何度も読んだのは、小説『人間革命』。弟子・山本伸一が、恩師の願業である75万世帯を達成し、人々を根底から蘇生させ、社会を変革しゆくストーリーに感動した。
「この師弟不二の物語は、どこの国であっても実現できるはずだと決意し、まず自身の宿命転換に挑戦していきました」
失業から数カ月後には、新たな就職を勝ち取ったグプタさん。14年、BSGの議長に就任。後継の青年たちに師弟の精神を語り伝える日々だ。
――インド広布の重要な指針が示された1992年の勤行会で、先生は述べている。
「私たちは、法華経の霊山会での『広宣流布』という久遠の誓いを、ともに果たすために生まれた。みずから願って、それぞれの使命の舞台に躍り出てきたのである」
「年ごとに、希望あふれるインドである。決して、あせることなく、着実に、また確実に、悠久のガンジスの流れのごとく、一千年先、二千年先を見つめて、堂々と進んでいただきたい」

92年当時、約1500人だったインドの地涌の陣列は、池田先生が再訪する97年には、約4000人まで拡大する。
そのうねりは年々、勢いを増し、先生の初訪問(61年)から58星霜となる本年、久遠の誓いに立ち上がった同志のスクラムは、20万人を超えて大きく広がっている。