「葛飾総ブロック長」(上)壁を破れ!創価の世紀へ
2004.01.01投稿
「既成の腐敗勢力に勝つ日はいつぞ」
新しき息吹が必要なり
昭和32年8月28日の本部幹部会でのこと。
席上、ブロック体制の改革が発表。東京23区に「総ブロック」制が敷かれた。
これによって学会は、支部という「タテ線組織」とともに、「地域」重視の「ヨコ線組織」をも視野に入れることになった。
この日、29歳の池田名誉会長が「葛飾総ブロック長」に就任した。
◇
この体制が敷かれる3カ月前、名誉会長は和歌を詠んでいる――
「幾度か 戦の庭に 起てる身の今日の悲しみ いかでか忘れむ」
その時、名誉会長はこう綴っている
「既成の腐敗勢力に、勝つ日は、いつぞ。必ず、必ず」若き日の日記
人々の幸福は、腐敗勢力に勝つ以外に勝ち取れない。どうすればいいか。
名誉会長は、「若き日の日記」にこう綴っている。
「学会も、第二の、建設期でなくてはならぬ。新しき人材、
新しき組織、新しき息吹が、必要なり」
人も組織も、新しい変革なくして第二の建設はない。それは、広布の
″戦人″の深き確信であった。
名誉会長は、新しい創価の勝利のために、葛飾総ブロック長に就いた。
以来34年7月までの1年11カ月、葛飾総ブロック長として指揮を執った。その間、名誉会長はどう行動し、どう手を打ったのか。ここから新しい創価学会が始まった。
◆証言 西方きみさん(当時総ブロック委員)
池田先生が総ブロック長の任を受けられた日、私も葛飾総ブロック委員の
任命をいただきました。しかし、任命のことを私は何も聞いていませんでした。
地元で活動があったので、会場の豊島公会堂(東京・豊島区)にタクシーで飛んで行きました。
着いた時、まだ始まったばかり。しかし、すでに会場はいっぱい。
廊下で耳をそばだてて聞きました。よく聞こえません。「西方」と呼ばれたようでしたが、
夫のことかなと思っていました。
終了後、「何聞いてんのよ。あんたが総ブロック委員になったのよ」と同志から言われて、驚きました。
「もっと立派な人がたくさんいるのに・・・。」
驚きで胸が詰まり、声が出なくなりました。まして、
みんなから慕われている先生と一緒に戦えるなんて、
本当にもったいないことだと思いました。
体中が震えんばかりでした。
地域が広布前進の基地
初めてブロック制が敷かれたのは、
30年5月。この制度はタテ線を補う組織として生まれた。
しかし、タテ線の地区部長以上の幹部はプロック役職に就かなかった。
あくまでタテ線が広布の主戦場だった。
では、なぜ総ブロック制へと組織が改革されたのか。
当時の聖教新聞には、こうある。「プロック制は幾多の好結果をもたらしたが、しかしこの制度に対する一
般の認識は薄かった。殊に幹部の参加が要望され、しばしばその強化も叫ばれてきたが、
本年(昭和32年)八月、夏期指導の一環として、東京大阪両都市でブロック別指導が行われた際、
会員に対する指導の不徹底というプロックの実態がはっきりわかったわけである」
このブロック別指導には、名誉会長も率先して入っている。それは出獄からまだ3週間しか経っていない時だった。
名誉会長は、東京のある区のプロック組織を指揮した。200数十世帯の折伏。
組織の全世帯数の1割増を、わずかな期間で成し遂げた。
会員へのきめ細かな激励。ここに、学会の生命線がある――戸国会長のこ
の精神を実践に移していたのが名誉会長であった。
「地域」こそ「広布前進の基地」であることを名誉会長は身をもって証明したのだ。
これが、総ブロック制へ移行する背景の一つとなった。
◆証言 河合君江さん(当時・総ブロック女子部責任者)
草創以来、学会は強力なタテ線組織が発展の原動力となってきました。しかし時代とともに、広布の布障はプロック組織へと移っていきました。
思えば、そのブロック組織の原点をつくってくださったのが池田先生でした。
しかし当時の私たちは、その重要性など微塵も知りません。プロックの日はタテ線の休息日ぐらいにしか思っていませんでした。
先生が総ブロック長に就かれて初めてブロックの大切さを知りました。
先生は、はるか未来を展望され、「地域の広布は、その地域で」との組織づくりの手を打たれたのです。
先生は言われました。「この葛飾で、私が指揮を執っているということは、
東洋広布の縮図なのですよ。」
タテ線組織ではなく、ブロック組織の延長線上に日本の広布も海外広布もあると見ておられたんです。
先生の構想の大きさ。これが学会を世界的に大きく発展させたのだと思います。
婦人部の活躍に期待総ブロック制では、理事長、理事をはじめとして全幹部がブロックの役職つ
に就いたのが大きな意義であった。
総ブロックのもとに、大ブロックーブロックー小ブロックという体制となった。
もう一つの意義は、婦人部の活躍であった。支部体制の「担当員」という婦人の役職をブロツクにも適用し、
婦人部の責任を明確にした。婦人部を大事にするのは、学会の伝統である。
◆証言 西方きみん(当時総ブロック委員)
「立派な方がいっぱいいるのに、どうして私が」と思い、夫に言いました。「私に総ブロック委員は無理よ、嫌だわ」。
すると「嫌なら嫌と自分で言えよ」と言うではありませんか。
「あんた、夫でしょ。あんたが言ってよ。冷たい人ね」。そんな暗嘩をしたことを覚えています。
「たくさん立派な方がいらっしやるのですが……」
本部に行った時、意を決して先生に話しました。
先生は、
「分かってる、分かってる」と。私は、それ以上、言えなくなってしまいました。
打ち合わせが始まると、「西方のおねえ姉さん、こっちへいらっしゃい」と先生。
私の方が年上だったので、先生はお姉さんと呼んでくださったのです。
それまでの私は、引っ込み思案で、いつも隅の方にいましたので、「お隅さん」とも呼ばれていました。
前に出ると、体がブルブル震えてしまいました。そんな私に、「西方さん、しっかり頑張ってやっていこうね」
と、先生は優しく言葉をかけてくださいました。
本部を出る時、先生はこうおっしゃいました。「多摩川と接する東京の端。大田から、千葉県境の東の端・葛飾へ私は東京を縦断して通います!」
東京を縦断して先生は葛飾に通ってくださるのか。それは、車ですら片道1時間以上もかかる大変なものでした。
先生の葛飾にかける意気込みのすごさをその時、私は初めて知りました。
この組織表は死んでいる葛飾在住の支部幹部にゆだねた。
この組織表は死んでいる
たなごころの組織
総ブロックの組織づくりの検討が名誉会長を中心に進められた。
翌日の29日、葛飾区在住の支部幹部の代表が本部へ集合。西方さんらは、
名誉会長の指示で、葛飾在住の支部幹部の名簿を持参した。
その日、名誉会長は、大ブロック、ブロックなどの組織案をつくることを
彼らは区内に住むタテ線の地区幹部を探し出し、それぞれ信心の状況や
居住地域を調べた。大ブロック長、ブロック長などの役職を検討するためだ
った。しかし、支部が違えば、接触の機会はほとんどない。各人の状況は分からないのが実情だった。
無から有への労作業は続けられた。
これが葛飾の屋台骨になると思うと、時間の経つのも忘れて検討した。つい
に組織表はできた。それを持って本部へ。
組織表を見た名誉会長は、そこに載っている幹部のことを訪ねた。
「この人の仕事は何ですか」「奥さんの信心は」「お子さんは何人いるのですか……」。
誰一人まともに答えられなかった。