【ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち】第16回 マリー・キュリー

〈マリー・キュリー〉
私たちは自分の運命を切り開こうと
努力しながら、しかも同時に
全人類への責任を持たねばならない。
 かの大科学者アインシュタインは語った。「名のある人々のなかで、マリー・キュリーはただひとり、その名声によってそこなわれなかった人物である」と。
 
 マリー・キュリー――夫ピエールと共に新たな放射性元素を発見し、その5年後の1903年にノーベル物理学賞を受賞(女性初)。11年にはノーベル化学賞にも選ばれ、2度のノーベル賞に輝いた唯一の女性として知られる。
 
 彼女には「各人が自分の運命をきりひらいていこうと努力しながら、しかも同時に全人類にたいして責任をわけもたねばならない」という信念があった。地位や名誉のためではなく、世界や未来のために学び続ける。だからアインシュタインは「いつも自分を社会に仕えるしもべと考え、その謙虚さはけっして自己満足というものを知りませんでした」と、マリーを称賛してやまなかったのだろう。
 
 イギリスの歴史専門誌「BBCヒストリー」は2018年、「史上最も世界に影響を与えた女性」の第1位にマリーを選出。時を超え、国を超えて、広く尊敬を集める。創価女子短期大学(東京・八王子市)には“向学のシンボル”として彼女の像が設置され、アメリカ創価大学には科学棟「キュリー棟」が立つ。

昨年11月に開所したアメリカ創価大学の科学棟「キュリー棟」。「人間のための科学」を探究する学びやから、世界平和に貢献する多彩な人材を送り出す
 マリーは1867年11月、帝政ロシアの支配下にあったポーランドのワルシャワに、5人きょうだいの末っ子として誕生した。父は中学校の物理と数学の教師、母は女学校の校長という家庭で育ち、幼い頃から読書や勉強に励んだ。
 
 8歳になると、大きな試練に襲われる。長姉を病気で失い、さらに2年後には母を結核で亡くしたのだ。相次ぐ家族との別れに、一家は悲嘆に暮れた。それでもマリーは前を向き、15歳の時に最優秀の成績で女学校を卒業する。
 
 だが、当時のポーランドでは、どんなに優秀であっても、女性がそれ以上、学問を続けることはできなかった。マリーは家計を助けるため、16歳で家庭教師として働きだした。時を同じくして「移動大学」で学び始める。そこは警察の厳重な監視の目を避けながら学ぶ、正規ではない“秘密の大学”だった。祖国の復興を目指す青年たちが設立し、皆で教え合い、知性を磨き合っていたのだ。
 
 青春時代、彼女は友人への手紙に記している。「第一原則、誰にも、何事にも、決して負けないこと」。決して負けない。一歩も退かない――この強き心が、後のキュリー夫人を生んだのである。

〈マリー・キュリー〉
どんな環境でも、やり方次第で
いくらでも立派な仕事ができる。
雨のち晴れを信じて進むのです。
 向学の志に燃えるマリーが目指したのは、フランス・パリ大学への留学だった。だが、一家の厳しい経済状況では、留学のめどが立たない。そこで彼女はポーランドの地方で3年間、家庭教師として住み込みで働くなど懸命に資金をため、24歳で姉夫婦が暮らすパリへ。女性に対して門戸が開かれたパリ大学で、苦学して物理学と数学の学士を取得した。
 
 その中でフランス人物理学者のピエールと出会い、1895年に結婚。2年後には長女を出産する。
 
 母になったマリーが次なる目標として掲げたのは博士号の取得だった。研究テーマに選んだのは、フランスの物理学者ベクレルによって報告されていた「ウラン化合物が不思議な放射線を発する」現象の究明である。

ポーランドの首都ワルシャワの旧市街に立つマリーの生家
 さまざまな実験の末、その性質を「放射能」と名付けたキュリー夫妻は、まだ人類に知られていない元素があることを突き止める。発見した未知の元素に「ポロニウム」「ラジウム」とそれぞれ命名し、その存在を証明するため、二人は大きな実験室で作業できるよう、パリ大学に掛け合った。
 
 しかし希望はかなわず、やっとの思いで借りられたのは、物理化学学校の医学生の解剖室として使われていた“物置小屋”。それでも幾多の苦難を乗り越えてきたマリーには「どんなに不適当な場所にいても、やり方しだいで、いくらでもりっぱな仕事ができるものだ」との確信があった。
 
 実験室は、夏は焼けるように暑く、冬は凍るように寒く、雨漏りもした。そんな過酷な環境でも二人は地道に作業を続けた。そして研究開始から4年がたった1902年、ラジウム塩の抽出という世界初の快挙を成し遂げたのである。
 
 03年、放射能研究の功績が認められ、夫妻でノーベル物理学賞を受賞。マリーは博士号も取得し、翌年には次女を出産した。

質素な実験室で放射能の研究に明け暮れたマリーと夫のピエール。過酷な環境をものともせず、放射性元素「ラジウム」や「ポロニウム」を発見した功績などが認められ、ノーベル物理学賞を受賞した©Culture Club/Hulton Archive/Getty Images
 ところが――。全てが順風満帆に思えた時に、人生最大の悲劇が起きる。パリ大学の教授に就いていたピエールが荷馬車にひかれ、この世を去ってしまったのだ。当時、マリーは38歳。8歳と1歳の子どもを残し、あまりにも突然の別れだった。
 
 絶望に沈む彼女を支えたのは、ピエールとの「誓い」にほかならなかった。“何があっても二人の使命を完遂する”――人類への貢献を果たすため、マリーは涙を拭い、講師を経て、夫の後任としてパリ大学の教授に就任する。
 
 女性や外国人ゆえの差別、偉業に対する妬みから迫害を受けることもあったが、マリーは屈しなかった。夫の遺志を継ぎ、研究を積み重ねた結果、44歳で2度目のノーベル賞(化学賞)に輝く。
 
 彼女は後年、娘に宛てた手紙にこうつづっている。
 
 「私たちはきっと勇気をもちつづけるでしょう。雨のあとは、きっと晴れというしっかりとした希望をもっていなければなりません」
 
 女性科学者の道を開き、放射線治療の礎を築いたマリー。第1次世界大戦が勃発すると、長女イレーヌと共に各地の野戦病院を巡回し、負傷者の救護に尽くした。
 
 晩年は後進の育成に力を注ぎ、亡くなる数カ月前まで研究所で仕事を続けたという。イレーヌもまた、夫と共にノーベル化学賞を受賞。マリーが66年の生涯を閉じた翌年(1935年)のことである。

〈キュリー夫人を語る池田先生〉
「悲哀に負けない強さ」にこそ
マリーの偉大さがある。
順風満帆の人生など、ありえない。
困難に勝つには使命を自覚すること。
そこに希望が生まれるからです。
 50年前の1972年4月30日、フランスを訪問していた池田先生は、パリ郊外に立つマリーが暮らした家へ。香峯子夫人と並んで歩いていた友に、こう語っている。
 
 「私は、マリー・キュリーの偉大さは、二つのノーベル賞を取ったということより、『悲哀に負けない強さ』にこそあると思う。順風満帆の人生など、ありえない。むしろ困難ばかりです。それを乗り越えるには、自分の使命を自覚することです。そこに希望が生まれるからです」
 
 その後も、随筆やスピーチでマリーの言葉や生き方を通し、多くの同志に励ましを送ってきた。
 
 「『ひとりひとりの個人の運命を改善することなくしては、よりよき社会の建設は不可能』とは、ポーランドの生んだ大科学者・キュリー夫人の有名な洞察であった。
 
 かつて全体主義の抑圧のもとで、『一人』が軽んじられ、人間の心が置き去りにされてきた苦渋が長く続いた。だからこそ、『皆、宝塔』『皆、仏』と説いている、最極の人間尊敬の仏法が輝いていくのは、当然な法則だ。(中略)誰もが、この世で幸福と勝利を勝ち取る権利があるからだ」(本紙2005年2月18日付「随筆 人間世紀の光」)
 
 「夫人は手紙につづっている。
 
 『よい年とは、健康な年、気持ちのはればれとした年、仕事のよくできる年、毎日毎日生きる喜びを感じ、未来にばかり希望をつないで、いたずらに月日のすぎてゆくのを待ったりしない年のことです』
 
 いたずらに時を空費し、無駄に過ごすことがあってはならない。一日一日が重要だ。一年一年が貴重である」(05年1月2日、創価大学代表協議会でのスピーチ)

科学の発展に尽くしたマリー・キュリー(1867―1934年)
 2008年2月には、創価女子短期大学の特別文化講座「永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る」を本紙で連載。短大生をはじめ、全ての創価の女性たちへのエールをつづった。
 
 ――どんな人でも、どんな時代に生きても、その人には、その人にしかできない使命がある。平凡であっていい。「自分らしく」輝いてほしい――そう期待を込め、先生は呼び掛けている。
 
 「大切なのは、『私は自分にできることをやりきった!』と言えるかどうかです。
 
 順境のなかでは、人間の真の力は発揮できない。逆境に真正面から立ち向かっていくとき、本当の底力がわいてくる。逆境と闘うから、大いなる理想を実現することができるのです」