どう受けとめるか一念次第。激闘37 小説「新・人間革命」27巻

 情熱を込めて、山本伸一は訴えた。

 「次の『諸の悪人は又善知識なり』(御書九六二ページ)の御文も、非常に大事です。

 善知識というのは、仏道修行を支え、助けてくれる存在です。しかし、日蓮大聖人は、諸の悪人、すなわち仏法者を迫害し、信心を妨げる働きをなす悪知識を、御自身にとって、善知識であると言われている。

 なぜか――。諸の悪人による迫害に遭うことによって、法華経の行者であることが立証できるからです。風があってこそ、風車が回るように、迫害あってこそ、悪業を転換し、一生成仏することができる。

 難が競い起これば起こるほど、強盛に信心を燃え上がらせていくならば、悪知識も、すべて善知識へと変えていくことができる。むしろ、それが、真実の信仰の姿です。

 反対に、学会の先輩が成長を願って、誤りを指摘してくれたにもかかわらず、恨みをいだき、退転していく人もいます。その人にとっては善知識となるべきものが、結果的に悪知識と同じ働きをしてしまうことになる。

 善知識にするのも、悪知識にするのも、最終的には本人の信心なんです。ゆえに、弾圧、迫害も、信心の大飛躍のバネにすることができる。つまり、どんな逆境に遭遇しても、それが、そのまま魔になるわけではない。どう受けとめるかで、一念次第で、魔にもなれば、信心向上の力にもなっていくんです。

 どうか、第六天の魔王が率いる十軍という己心の魔に打ち勝ってください。この魔を打ち破る力は唱題です。生命の根本的な迷い、すなわち無明を断ち切ることができるのは、南無妙法蓮華経の利剣です。どこまでも、唱題第一に戦おうではありませんか!」

 伸一は、集った人たちの魂を揺さぶる思いで、語り抜いた。叫び抜いた。訴え抜いた。全生命を振り絞っての指導であった。

 彼は、広布第二章の大飛躍を期すために、全会員が、真の信仰に立ち返り、いかなる障魔の嵐にも翻弄されることなく、信心の正道を歩み抜いてほしかったのである。