人間を見つめる社会保険労務士 冬山で遭難、指と足の切断に負けず〈信仰体験〉
2020.01.19投稿
連載企画〈登攀者〉
「ちょっと教えてほしいんじゃけど……」。国広社会保険労務士事務所に問い合わせの電話が入る。「働き方改革関連法」の時間外労働の上限規制が、本年4月から中小企業でもスタートするとあって、社会保険労務士の国広明三さん(63)=広島市安佐南区、副本部長(地区部長兼任)、総県専門部長=のもとには、なじみの事業主から、就業規則の改正や給与面などの労務環境に関する相談が相次ぐ。「ほうほう。じゃあ、ちょっとそっち行きますわ」
「一寸先は闇」の乱世を生き抜くため、中小企業の経営者たちは、変化を常に強いられる。「創業と守成」に挑む経営者たちに、時に優しく、時に厳しく助言を送る国広さんは、さながら戦国時代の参謀のよう。経営の本質を突く指摘に信頼が寄せられる。
国広さんのモットーは「会って語る」こと。相談者に寄り添う姿勢を周囲の人は、「人情味あふれる行動派」と評する。
「今の時代、ネットもスマホもあって便利ですが、やっぱり小まめに会うことが一番じゃねえ。そうすると、ちょっとした異変いうんか、問題の兆候を見つけやすいんです」
親指しかない右手で器用にペンを握る。受話器を持つ左手は、人さし指と親指の2本のみ。「これですか……。若気の至りというか、まあ馬鹿なことをしたもんです」
大学時代に、山岳部で数々の山を登った。国内はもとより、ヒマラヤのプモリ(標高7161メートル)に挑んだことも。
社会人1年目の年末。大学時代の登山仲間2人と、飛騨山脈南部の槍ケ岳に挑む計画を立てた。中でも難ルートである北鎌尾根の踏破は、多くの登山家の憧れ。だが登山時、日本列島に強い寒気が南下、全国的な大雪となっていた。甚大な被害から、後に「五六豪雪」と呼ばれる悪天候に見舞われた。急速に風雪が強まり、視界が閉ざされる。下山しようにも、凍りついた体が言うことを聞かない。山岳救助隊へのSOSも反応がなく万事休す――。
そこへ偶然、登山に来ていた別のパーティーがリュックを背負ってくれ、命からがら飛騨高山まで下山。すぐさま病院に搬送された。
代償はあまりに大きかった。ひどい凍傷により、手指と右足の甲、左足は膝下の切断を余儀なくされた。
半年間の入院生活。自分の体の一部がなくなったことが信じられない。ベッドから降りて歩こうとするたび、激しく転んだ。病室の床の冷たさが、厳しい現実を突き付けていた。
“こんな体でこの先どうやって生きていけばいい……”
「故郷に帰って、父ちゃんに一生飯食わせてもらえ」。見舞いに来た人の言葉に、自身の無謀と浅慮を恥じた。
生死をさまよった経験から、退院後は、さまざまな宗教を遍歴した。どの宗教も幸せになれるという。だがどれも金を取ることばかり。失望感しか残らなかった。
「宗教の教えには、高低浅深がある。創価学会の信心をやってみないか」
折伏をしてくれた竹田さん㊨と国広さん
折伏をしてくれた竹田さん㊨と国広さん
会社の同僚であった竹田幸治さん(64)=副支部長=から聞いた話も当初は信じられなかった。だが、「最後は、竹田さんの熱意に根負けして勤行・唱題を始めました(笑い)」。題目を唱えるうちに、胸の奥から生命力が湧き上がった。信心の確信を深め、1982年(昭和57年)に入会。
「広島青年平和文化祭」(同年10月)で、同世代の青年が生き生きと躍動する姿を目の当たりにした。この時、国広さんは心に深く期した。それまで勉強を続けてきた「社会保険労務士」合格への道を貫く、と。
特定社会保険労務士の資格をもつ長女・千恵子さん(中央)をはじめ、家族が国広さんをサポートする
特定社会保険労務士の資格をもつ長女・千恵子さん(中央)をはじめ、家族が国広さんをサポートする
入院前と同じ会社に勤めながら、昼休みや夜の会合終わりに法律書を開いた。社長の運転手を務めるときには、あらかじめ「労働基準法」「厚生年金保険法」など、各範囲ごとに参考書を切り取った。車中で読み込んでは自作のノートを作成した。
試験直前の模擬試験では、とても合格に達しない点数だった。しかし、「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」(御書1253ページ)を胸に、題目を唱え、諦めない心で挑み抜く。3度目の挑戦で、9倍の倍率を突破し合格。社労士事務所に勤務しながら、さらに基礎を固め、2年後の90年(平成2年)3月に、個人事務所を開業した。
当初の顧客は、以前の事務所から紹介された2社のみ。「どこから、仕事が来るんじゃろうか」「自分から回らにゃいけんのんじゃ」
繰り返す自問自答。真剣に題目を唱えては、勇気を出して最も苦手な飛び込み営業へ。
「100社回って話を聞いてくれるのは1社あるかどうか」
「契約までこぎつけるのは、千軒回って3社あるかどうか」
断られても断られても、歩みを止めなかった。
池田先生がスピーチで紹介した吉川英治の『宮本武蔵』の言葉が励みになった。
「あれになろう、これに成ろうと焦心るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ」
妻・政恵さん(61)=副白ゆり長=が、家でも事務所でも、長男・徹さん(37)=男子部員=と長女・阿部千恵子さん(32)=婦人部員=の幼子2人を抱えながら、支えてくれた。
社労士の仕事がない時には、パンの配達や不動産会社の受付も。次第に信頼を広げていく。依頼を受ければ、「何とか応えてやれんかのお」と、祈っては知恵を絞り、また祈っては歩みを進める。
そうして、軍需工場時代の年金、脳梗塞による障害年金など、年金事務所に粘り強く通い、資料を見つけ出しては、不支給とされた年金を取り戻すなど、依頼人の要望に応えてきた。
国広さんが志してきたのは、「人間を人間として見つめる眼をもつ」人間主義の社会保険労務士。依頼人の事業主だけでなく、そこに働く従業員の労務環境向上にも寄与したかった。時に、経営者と従業員で意見が対立することもある。
「もっと話をよく聞いてあげんといけん。社員がいてこその会社じゃけん」
地区部長を務める新和地区の同志と
地区部長を務める新和地区の同志と
1年に約10社ずつ顧問先が増え、今では100社を超える。7年前には、「食道・胃静脈瘤の破裂」も乗り越えた。
「どんなにつらく高い壁だと思ったことも、乗り越えてしまえば、全て意味のあることだと思えるものです」