威風堂々の歌、歌詞、YOUTUBE、成り立ち【学会歌】

作詞 :大橋幸栄
■作曲 :不詳

歌詞

一、濁悪の此の世行く 学会の
行く手を阻むは 何奴なるぞ
威風堂々と 信行たてて
進む我らの 確信ここに

二、今日もまた明日もまた 折伏の
行軍進めば 血は湧き上がる
威風堂々と 邪法を砕き
民を救わん 我らはここに

三、我ら住む日本の 楽土見ん
北山南河は邪宗の都
威風堂々と 正法かざし
※ 駒を進めば 草木もなびく
(※以下くり返し)

【成り立ち】
烈々たる気迫こもる「威風堂々の歌」は、1955年(昭和30年)3月に誕生した。以来、半世紀。
嬉しいときも、悲しいときお、この歌を口ずさみながら、勇気を奮い起こし、明日への一歩を踏み出した人は数知れない。

「威風堂々の歌」は京都で生まれた。
誕生の物語は、大阪支部のもとに京都地区が誕生した直後にさかのぼる。
ある会合で、大阪支部の各地区のメンバーが、次々と、自分たちの決めた地区歌を歌っていた。
しかし、関西の一方の雄を誇る京都地区には、まだ地区歌がなかった。
地区歌が欲しい。しかし、誰も作詞や作曲の経験などない。
洋傘の製造卸業を営む組長の大橋幸栄さんが、班長の桐村茂夫さんに、地区歌のない悔しさを語った。

すると班長は、「じゃ自分で作ればいいじゃないか」と、その場で鉛筆と紙を大橋さんに渡した。

大橋さんにも、もちろん作詞作曲の経験などない。しかし言い出した手前、「ようし、わしが作ったろ」と、店の小さな机の前で立ったまま考えた。

「広宣流布の出陣をするんや。威風堂々と。」

大橋さんは自らの決意を込めて、鉛筆を走らせた。
歌詞は5分でできあがった。”威風堂々”というのは、最初から心に描いていたイメージだった。
「どない歌うねん?」との班長の言葉に、作曲も引き受けることになった。しかし、譜面が書けるわけでもなく、テープレコーダーといった文明の”利器”もない。歌うたびに曲は変わった。
作曲から一ヶ月。ようやく曲が完成した。

「ええ歌や。歌うと元気がわいてくる」

地区の人たちは、その力強さに感動した。
この歌は地区歌に採用され、人びとの口から口へと伝えられていった。56年(昭和31年)8月、京都地区は京都支部になった。渋いんは、「支部歌」となった「威風堂々の歌」を誇らかに歌いながら、全国一の弘教を実らせたのである。

「これはいい歌だ。これからはみんなで歌おう!」

58年(昭和33年)ごろのことである。そのころ、京都に激励に訪れていた池田青年室長(現名誉会長)が「(威風堂々の歌)をもっと多くの人に歌ってもらおう」と提案。そのうえで池田室長は、作詞者の了解を得て歌詞を少し手直しした。
当初3番の1行目は、「我ら住む平安の洛土見ん」であった。この「平安(京都の別称)」と「洛土(京都の地、ここでの「洛」は京都を指す)」の文字を、室長は「日本」と「楽土」に変えたのだ。
「我ら住む日本の楽土見ん」という歌詞によって「威風堂々の歌」は京都の歌から日本の歌へと変わり、疾風を起こしていったのである。
この歌は、厳しい環境のなかから生まれた歌だからこそ、人々の心をとらえたにちがいない。