宗門には、牧口常三郎の時代から、学会を正しく理解できず、蔑視したり、敵視したりする僧が少なくなかった。
しかし、牧口と戸田城聖の、死身弘法の実践と宗門への赤誠を見続けてきた法主たちは、創価の師弟に賞讃を惜しまなかった。
創価学会常住の御本尊に「大法弘通慈折広宣流布大願成就」と認めた水谷日昇法主は、広宣流布に邁進する創価学会の姿に感嘆し、一九五二年(昭和二十七年)の十一月、書簡に感謝の意を、こう記している。
「今や学会の活躍は、宗門史上、未曾有の事で、万一、学会の出現なき時は、
宗門はほとんど衰頽の期のところ、御仏の御利益により、戸田氏統率の学会が出現し、広宣流布の大願に邁進、日夜、止暇断眠、折伏の妙行に精進され、為宗(=本宗にとって)同慶の次第です。老生(=私)の時代に戸田氏と学会の活躍もまた妙縁で、名誉のことであります」
戸田や学会との縁を「名誉」と述べる謙虚な言葉は、「日興遺誡置文」の「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」(御書一六一八p)との御精神によるものであろう。
宗開両祖の根本精神に照らす時、学会の偉業は厳たる輝きを放つのである。
日昇の後を継ぎ、五六年(同三十一年)に登座した堀米日淳法主もまた、以前から学会を深く理解し、賞讃し続けてきた。
四七年(同二十二年)十月の創価学会第二回総会で日淳は、殉教した創価の父・牧口常三郎を、こう讃えている。
「私は先生が、法華によって初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によって開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考えさせられるのであります。
そうして先生の姿にいいしれぬ尊厳さを感ずるものであります。
先生には味方もありましたが、敵も多かったのであります。
あの荊の道を厳然と戦いぬかれた気魄、真正なるものへの忠実、私は自ら合掌せざるを得なくなります」(注)