一九七六年(昭和五十一年)の半ばごろから、山脇友政は、法主につながる人脈をもつ若手の僧らに、デマを流していった。
「学会は、いよいよ宗門と対決する」「宗門を乗っ取って、支配する計画だ」──いずれも〓で塗り固めた荒唐無稽な情報であった。
若手の僧には、住職になれる教師資格をもちながら、赴任する寺のない無任所教師もいた。
彼らにとって、その情報は、将来への不安と、学会への不信と憎悪を煽り立てる話であったにちがいない。山脇が、学会の幹部で弁護士であっただけに、その言葉を真に受けたのだ。
これも後年になって明らかになるが、週刊誌などに、学会を中傷するための情報を流し続けていたのも、山脇であったのだ。
僧たちの理不尽極まりない学会攻撃に対して、学会の首脳幹部は、宗務院の役僧に抗議もした。
山本伸一も、事態の収拾を願い、学会の青年たちが考えた僧俗和合の原則を役僧に渡し、検討を求めたりもした。
しかし、学会を敵対視する僧らは、宗務院の指導には、既に耳を傾けなかった。むしろ、役僧たちにも、攻撃の矛先を向ける始末であった。
彼らの学会員への不当な仕打ちは、各地でますます激しくなっていった。
宮崎県の二十一歳の男子部員は、最愛の母を亡くし、自宅での葬儀に宗門の僧を呼んだ。
母は、女手一つで彼と二人の姉を育てた。その母が大好きだった学会歌を、葬儀で流した。
僧は、吐き捨てるように言った。
「学会歌なんか流すな! 不謹慎だ!」
愕然とした。悔しさに震えが走った。涙声で「母が、母が、大好きだったんです」と言って、テープをかけ続けた。
すると僧は、告別式が終わると、「火葬場には行かん」と言いだして、さっさと帰ってしまった。
「坊さんは、なぜ、来ないのだ!」
地域の人びとの声に身の細る思いがした。
肉親の死に乗じて学会員を虐げる。この宗門事件は、露になった悪侶らの、卑劣な人間性との戦いでもあった。