正義33 小説「新・人間革命」27巻

一九七八年(昭和五十三年)の幕が開いた。
学会は、この年を、「教学の年」第二年とした。
山本伸一をはじめ創価の同志は、仏法の哲理を、社会、世界に大きく開き、広宣流布への前進を加速させようとの気概に燃えて、晴れ晴れと新年のスタートを切った。
伸一の満五十歳の誕生日となる一月二日、日達法主は、僧俗一致して日蓮大聖人の第七百遠忌に進む旨の「訓諭」を発表した。
それにもかかわらず、この一月、学会を敵対視する僧たちは総本山に集い、学会攻撃の続行を確認し合ったのである。
宗門と学会の和合を恐れる山脇友政は、事態が収束に向かいそうだと見るや、“学会は必ず宗門を攻撃してくる”などといった讒言を重ねていったのだ。
結局、和合は束の間に過ぎず、宗内にあっては学会を誹謗する僧らが勢いづき、その攻撃は、とどまるところを知らなかった。
伸一は、事態が紛糾するたびに、宗門と忍耐強く対話を重ねた。そして、また和合へと向かい始めると、決まって悪質な讒言が流され、宗門と学会の仲を引き裂く動きが起こるのであった。 
宗門は、その讒言に踊ったのである。
やがて末寺では、学会員を脱会させ、寺につける、檀徒づくりも盛んに行われるようになっていく。
広宣流布を御遺命とされた日蓮大聖人の末弟たる僧たちが、死身弘法の戦いで広布を推進してきた学会を目の敵にして、悪口罵詈し、迫害を加える。それは、「師子身中の虫」以外の何ものでもなかった。
御聖訓には「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず」(御書一〇八七p)と仰せである。
迫害は、創価の正義の証明である。
艱難辛苦を乗り越えずして、広宣流布の勝利はない。黄金の旭日を仰ぐには、烈風の暗夜を越えねばならぬ。正義の航路は、猛り立つ怒濤との戦いである。