波多光子は、七十六歳であった。
山本伸一は、彼女が入会にいたった経緯や、広宣流布の苦闘の幾山河について、次々と尋ねていった。
波多の体験を通して、集ってきた同志と共に、「本当の信心とは何か」を確認しておきたかったからである。
彼女は、伸一の質問に対して、「あのな、私はな」と、柔和な笑顔を輝かせながら語っていった。
戦争が終わり、平和と希望の時代が訪れることを期待していた時、杖とも柱とも頼む夫が、九人の子どもを残して他界する。
一番下の子は、まだ一歳であった。
波多は必死に生きた。貧しさのなかで、もがくような毎日であった。さまざまな信仰にもすがった。
水垢離もした。しかし、なんの希望も見いだせぬ、暗澹たる日々が続いた。
そんなころ、近所の人から、仏法についての話を聞いたのである。
一九五六年(昭和三十一年)の夏のことであった。
七十五万世帯の達成をめざす、広宣流布の弘教の潮は、三重の山村にも、滔々と広がっていたのだ。
波多に仏法の話をしたのは、露崎アキという婦人であった。
彼女は結婚して大阪で暮らしていたが、夫を亡くし、実家のあるこの白山町に帰ってきたのだ。
魚の行商をしながら、女手一つで三人の娘を育てる苦労人であった。
露崎は、入会間もなかったが、「絶対に、幸福になれる信心やに」と、確信をもって訴えるのである。
波多は思った。
「この人は、私と同じような境遇なのに、なんでこんなに、明るいんやろう。学会の信心の力なんやろうか……」
露崎の確信と、生き生きとした姿に魅了され、波多は入会を決意したのである。
経済的な豊かさを手に入れることも、信心の実証にはちがいない。
しかし、最重要の実証とは、何があっても負けることのない、人間としての強さと、人を思いやる心をもち、はつらつとした生き方を確立することだ。
生命の輝き、人格の輝きを発することだ。