正義57 小説「新・人間革命」27巻

堺支部の幹部は、さらに話を続けた。
「経文に、御書に照らして、魔も、難も起こらない正法なんてありません。
難を避けるうまい方法はないかなどと考えてはだめです。覚悟を決めることですよ。
実は、魔にも、難にも、大きな意味があるんです。大聖人が、『魔競はずは正法と知るべからず』(御書一〇八七p)と言われているように、魔が競い起こるか否かによって、その教えが正しいかどうか、自分の信心が本物かどうかを、見極めることができるんです。
また、正法を流布して法難に遭うことによって、過去世からの悪業を今世で消して、一生成仏することができる。
だから、難を呼び起こしていく信心が大事なんです。
もちろん、配慮を欠く非常識な言動で、無用な摩擦を生むようなことは、厳に慎まなければなりません。
しかし、どんなに慎重に誠心誠意、対応しても、正法を弘めるならば、必ず難は起こります。
その理由は、この世界は第六天の魔王の所領であり、そこに、妙法受持の人が現れ、浄土に変えようというのだから、難が競い起こるのは当然なんです」
法難を回避することはできない。ゆえに大聖人は、「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(同一二八二p)と叫ばれたのだ。
しかし、大聖人の門下のなかにも、正義ゆえに大難が競い起こることを、受けとめられぬ者がいた。
師である大聖人が、竜の口の法難、佐渡流罪と、命に及ぶ大難に遭うと、恐れと、師への不信をいだいたのだ。
彼らは、「日蓮御房は師匠にておはせども余にこは(剛)し我等はやは(柔)らかに法華経を弘むべし」(同九六一p)と言いだしたのだ。
経文の随所に、法難が起こることは間違いないと記されているにもかかわらず、大聖人の折伏が剛直すぎるからだと、法華経の行者である師を批判したのだ。
退転の本質は、臆病であり、保身にある。
しかし、自己を正当化するために、問題を方法論などにすり替えて、正義の人を攻撃するのが、退転の徒の常套手段である。