法華経の行者の実践は無限の可能性を開こうとするもの。激闘32 小説「新・人間革命」27巻
2014.04.28投稿
第六天の魔王は、智慧の命を奪うところから、「奪命」といわれる。また、「他化自在天」ともいって、人を支配し、意のままに操ることを喜びとする生命である。
その結果、人びとの生命は萎縮し、閉ざされ、一人ひとりがもっている可能性の芽は摘み取られていくことになる。戦争、核開発、独裁政治、あるいは、いじめにいたるまで、その背後にあるのは、他者を自在に支配しようという「他化自在天」の生命であるといってよい。
それに対して、法華経の行者の実践は、万人が仏性を具えた尊厳無比なる存在であることを教え、一人ひとりの無限の可能性を開こうとするものである。
つまり、両者は、人間を不幸にする働きと幸福にする働きであり、それが鬩ぎ合い、魔軍と仏の軍との熾烈な戦いとなる。この魔性の制覇は、仏法による以外にないのだ。
では、魔軍の棟梁である第六天の魔王が率いる十軍とは何か。十軍は、種々の煩悩を十種に分類したもので、南インドの論師・竜樹の「大智度論」には、「欲」「憂愁」「飢渇」「渇愛」「睡眠」「怖畏」「疑悔」「瞋恚」「利養虚称」「自高蔑人」とある。
山本伸一は、研修会で、その一つ一つについて、実践に即して語っていった。
「第一の『欲』とは、自分の欲望に振り回されて、信心が破られていくことです。
第二の『憂愁』は、心配や悲しみに心が奪われ、信心に励めない状態です。
第三の『飢渇』は、飢えと渇きで、食べる物も、飲む物もなくて、何もできないことです。学会活動しようにも、空腹で体を動かす気力もない。交通費もない。だから、やめてしまおうという心理といえるでしょう。
第四の『渇愛』は、五欲といって、眼、耳、鼻、舌、身の五官を通して起こる、五つの欲望です。美しいものに心を奪われたり、よい音色、よい香り、美味、肌触りのよい衣服などを欲する心です。それらを得ることに汲々として、信心を捨ててしまうことです」