神奈川・静岡合同協議会
2006.01.12投稿
神奈川・静岡合同協議会
私は、昭和54年5月3日、創価大学での儀式を終えて、その足で、一番はじめに来たのが、ここ神奈川文化会館であった。
到着したのは、午後6時59分。妻と一緒であった。
そこには、大勢の、山をなした神奈川の同志がおられた。
会館の前の、1階から2階にあがる大きな階段にもいた。皆、大拍手で迎えてくださったのである。
あの時、なぜ私は、神奈川に行ったのか。
それは、未来を見つめてのことであった。
本部でもない。
東京でもない。
神奈川文化会館の前から、海を見つめて、これからは全世界の指揮を執ろう!
小さくて窮屈な、嫉妬の小国よりも、世界に向けて指揮を執ろう!
そう決意していたのである。
私は全世界を志向して神奈川に来た。
この海の向こうに、アメリカがある。ヨーロッパがある。アフリカがある。アジアやオセアニアにも通じている。
海を見るたび、構想は広がった。
当時、嫉妬と陰謀と謀略、妬みと焼きもちが渦巻いていた。
創価学会が、あまりにも大発展しているゆえであった。
反発した邪宗門の坊主らが、若干の騒ぎを起こしていた。
その時にも私は、もっと高次元から、世界を凝視した。
──ちょうどいい。
世界広宣流布の布石を、本格的に始めよう!──
そして今や、五大州の190もの国や地域に、学会の平和勢力、文化勢力が発展したのである。
私の指揮と行動は正しかった。
戸田先生がおられたならば、「よくやった、よくやった」と賛嘆してくださることだろう。
その師が今いないことは、さびしい限りである。
私が第三代会長を辞任したのは、この昭和54年の4月24日であった。
その時、真剣に、「偉大な学会と、宗門を発展させてきた大指導者が、なぜ、会長を辞めなくてはいけないのか」と、馳せ参じた友がいた。
藤原武君(現・関西長)をはじめとする関西の七勇士であった。
その目は爛々と輝き、その態度は「必ず自分が師を護る」という強い強い魂が光っていた。
今、彼らは、悠然として関西で、最大の勝利の指揮を執りながら、戦っている。
あの時、友は熱い熱い姿を見せた。その光景は一生涯、忘れることができない。
私は言った。
「新しい時代を必ずつくる。
君も一緒に頼む。
あとになって、皆が、偉大な仕事をしたと驚嘆するであろう」と。
学会を弾圧した、恩知らずの邪宗門の連中は皆、もう立ち上がれないだろうと思っていたに違いない。
心堕ちた学会の幹部もいた。しかし、あとになって、幾人か、「あの時は、本当に申しわけなかった」と懺悔してきた者もいた。
関西が立ち上がった。続いて埼玉の同志が立ち上がって、声をあげた。
「これだけの大功労の会長を、なぜ宗門も、幹部も、辞めさせたのか。
『勇退』と言いながら、引きずりおろした。
学会の将来は、池田先生がいなくては、めちゃくちゃじゃないか。分裂してしまう」
こう憂えていたのである。
「第三代会長を守れ! そうすれば、広宣流布は必ずできる」
これが戸田先生の遺言であった。最高幹部ならば、皆、知っていることである。
何よりも、日蓮大聖人が「難こそ誉れ」「難こそ安楽」と教えられている。
何があろうと、いかなる波浪があろうとも、私は、戸田先生との誓いの道をゆく。平和の道、希望の道、広布の道を、朗らかに歩み抜く。
大聖人の仏法の真髄は「進まざるは退転」である。
広宣流布へ前進また前進──そのために、リーダーは心を砕くことだ。間断なく手を打ち続けていくことである。
戸田先生も、牧口先生も、一面から言えば、本当に、口やかましかった。
「こんな細かいことまで」と皆が思うほど、神経をめぐらせた。
基本に徹し、よき伝統を守ることだ。それをないがしろにすると、あとで困る。崩れていく。
よき伝統というのは、皆が納得し、安心するものである。正しい指導をたもっていける。
教育の世界でも、優れた学校には、素晴らしい伝統があるものだ。
リーダーは、よき伝統を大事にしながら、「堅実な発展」を心していただきたい。
今日(12日)は神奈川と縁の深い四国でも運営会議などが行われている。これには、高橋四国長、松下四国婦人部長、また四国の方面幹事である西口総関西長と大内東海道副婦人部長らが出席している。四国の同志とも心を通わせながら協議会を進めたい。
今年は、聖教新聞の創刊55周年に当たっている。
神奈川・静岡の同志も、また四国の同志も、いつも聖教新聞の拡大に健闘してくださっており、感謝に堪えない。
つい先日の聖教新聞の「声」の欄(10日付)に、あまりにも懐かしく、あまりにもうれしい思い出が綴られていた。
それは、昭和55年(1980年)1月14日、四国の約1000人の同志が、あの「さんふらわあ7」号で、冬の荒海を越え、ここ神奈川文化会館に来てくださった歴史である。
あれから満26年。四国の友は、あの日あの時を原点として、人生の試練を乗り越え、師弟の誓いを原動力に、広宣流布の拡大を成し遂げてこられた。そのことが、感動的に記されていた。
この「声」を読まれた方々からも、早速、多くの反響が寄せられている。
あの年は、私の会長辞任の翌年であった。
1月13日の午後1時すぎ、神奈川文化会館で執務する私のもとに、第一報が入った。
香川、高知、愛媛、徳島の四国全県から、勇んで集った約1000人の同志が、高松港を出航したとの知らせである。
目指すは、ここ神奈川文化会館の眼前に広がる横浜港。
船は、白亜の客船「さんふらわあ7」号である。
私は、航海の無事安全を、妻とともに真剣に祈った。一人も船酔いすることなく、元気で到着されるようにと、題目を送り続けた。
出発したその日、横浜は雪の舞う寒い日であった。東海上には低気圧があり、海上は荒れることが予想された。
学会本部からは「念のため中止してはどうか」という連絡も入ったという。
しかし、もう出航直前だった。合図のドラが鳴っていた。“出航したあとは、すべて船長の判断に任す”と決め、旅が始まったのである。
“船上幹部会”では、意気軒昂に語り合われていた。
──本来ならば、池田先生に指揮を執っていただいて、本年の学会創立50周年を盛大に祝賀すべきである。
牧口先生、戸田先生、そして池田先生という三代の会長が築いてくださった創価学会ではないか。
しかし、今、先生に、自由に動いていただくことはできない。四国にお迎えすることもできない。
それならば、私たち四国が、全国に先駆けて、先生のもとへ馳せ参じて、創立50周年のお祝いを申し上げようではないか。
先生がおられるところが、広宣流布の本陣だ。最前線であるのだ──と。
のちに、手書きで書き留められた、その船内の克明な記録を、私は拝見し、心で泣いた。
船には、ドクター部や白樺(女性看護者のメンバー)の方々も、勇んで同行され、同志の健康を見守ってくださっていた。
創価班や白蓮グループをはじめ、志願の男女青年部の、はつらつたる献身も光っていた。
船内で皆が楽しく過ごせるようにと、私は、“寅さん”の映画(「男はつらいよ」)の手配も、事前に、そっとお願いしておいた。
ありがたいことに、波涛会(海外航路に従事する壮年・男子部のグループ)の方々も、太平洋岸の要所要所の岬に待機して、変化の激しい波の様子を、逐 次、報告する態勢まで取ってくださっていた。
四国で留守を守ってくださる同志たちも、皆、たえまなく唱題を続け、無事故・大成功を祈っておられた。
そこには、どんなに嫉妬に狂った坊主らが壊そうとしても、絶対に壊せない「異体同心」の金剛の団結が輝いていたのである。
波頭を越えて、四国の友が、横浜港の大桟橋に到着したのは、翌1月14日の午後1時前であった。
前日とうってかわって、この日は穏やかな陽気となった。
大聖人は、「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」という法華経の一文を「最上第一の相伝」とまで仰せであられる。
私は大桟橋に立って、花束を抱えて、遠来の同志をお迎えした。
この私と同じ心で、神奈川県中から集まり、真剣の歓迎をしてくださった友の顔も、私は今もって、忘れることができない。
わが音楽隊も、勇壮な学会歌の演奏で盛大に出迎えてくれた。
そのあと、午後1時半から、四国・神奈川交流幹部会が、神奈川文化会館で劇的に開かれた。
はるばると勇み来った四国の同志も、誇り高く偉大であった。
その同志を勇み迎えた神奈川の同志も、また誇り高く偉大であった。
私は、ピアノで「大楠公」「熱原の三烈士」など数曲を奏で、贈らせていただいた。
心と心の交流が、幾重にも深く、また強く結ばれた。凝結した黄金の時が流れた。
そして、その日の午後7時、四国の同志は、横浜港を出航して、帰途につかれたのである。
私は、船が見えなくなるまで、神奈川文化会館の窓から、妻とともに懐中電灯を振り続けて、お見送りした。
深夜11時半ごろと翌朝の9時、私は、船に直接、電話を入れて様子をうかがった。来られなかった方々への伝言も託した。
船が着いてからも、高知県の方々など、自宅へ戻るまで、さらに長い道のりが続く。妻も、皆さまが全員、無事に帰宅されるまではと、祈り続けていた。
なお、この時の船長が語ったというお話も、のちにうかがった。
「初めて、創価学会の方を乗せました。なんというか、言葉では言い表せませんが、本当に爽やかな気分です。
この人たちを、一人も船酔いさせてはいけないと思い、慎重に舵をとりました」
当時の宗門に遠慮した聖教新聞の紙面では、「交流幹部会」自体は報じられているものの、四国の同志と私との出会いのことは、一行も記されていない。
しかし、だれ人も冒すことのできない、荘厳な師弟の劇が厳然と刻まれていたのである。
その後、5月にも、徳島の約1000人の同志、そして愛媛の約1000人の同志が、それぞれ船で、神奈川までお越しくださった。
2回とも、私は心から歓迎させていただき、忘れ得ぬ歴史となった。
のちに、私はこの方々を、「三千太平洋グループ」と命名させていただいた。
学会が一番、大変なときに、私とともに、一番、深く、一番、尊い歴史をつくってくださったのは、四国の友であった。
そしてまた、東海道の皆さまであった。
アメリカの鉄鋼王カーネギーの言葉に、「危機に当たって、人間の真価が試される」とある。
困難な時こそ、本物が光る。
古代ローマの詩人ルクレーティウスは言った。
「人を見るのには、危機に陥った際に限る、逆境にあってその人物如何を見るに限る。
即ち、かような時にこそ始めて真実の声が心の底から出るものであり、また仮面ははがれ、真価のみが残るからである」
その通りである。
有名な『プルターク英雄伝』には、こう記されている。
「真に高貴健剛な精神は、厄難に処し逆境に沈淪(ちんりん)する日において、真骨頭を発揮するものである」
難よ、来るなら来い!──これが学会精神である。
御聖訓に「大難来たりなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(1448頁)と仰せの通りである。
あの日あのときの偉大な四国の同志は、私の胸の奥底に、永遠に刻まれて離れない。
最も困難な時に、戦ってくださった人を、私は断じて忘れない。
あの日あの時の尊き皆さま方が、今、四国広宣流布の中核を担い立って、指揮を執っておられる。その英姿を私は、何よりもうれしくうかがっている。
また亡くなられた方々にも、私は毎日、追善回向の題目を送っている。
後継のお子さん方や後輩たちも、「さんふらわあ7」号の師弟旅の先駆者を、最大に尊敬し、感謝し、誉れとして、そのあとに続いておられる。
広宣流布の“師弟の航路”を貫き通した人は、永遠に誇り高く、自分自身が光り輝いていくのである。
【2006-01-12 神奈川文化会館】