阪神・淡路大震災から25年。支え支えられ、一緒に古里のために〈信仰体験〉

阪神・淡路大震災から25年。支え支えられ、一緒に古里のために〈信仰体験〉
2020年1月17日
連載企画〈きずな〉

 最初に出会ったのは、神戸市灘区内の小学校入学式。濵田有紀さんと長尾恵子さんは並んで入場した。この日から、二人の関係は築かれていく。
 
 1995年(平成7年)1月17日、阪神・淡路大震災が起こった。当時、小学3年生。あれから25年――。二人は今、大好きな神戸の町で共に笑顔を見せる。
 (連載「きずな」では、“二人”の絆から見えるドラマを紹介していきます)

濵田有紀さん
濵田有紀さん
◇濵田さんの手記
 震災から2カ月半後、仮設の教室に集まった4年1組。私(濵田さん)は、初めて恵子(長尾さん)と同じクラスになった。彼女は太陽みたいに明るくて友達が多い。それに比べて、私はとにかく暗かった。
 
 低学年の時に仲間外れにされ、自分の感情を出すのが怖くなった。避難生活のストレスもあって、この数年間は思い出したくないし、消したい記憶。
 
 当時の私からすると、恵子は正反対。太陽と月というか。でも境遇は似ていたからか、一緒に遊んだり、銭湯に行ったり。仲良くなった。
 
 小学5年の時。恵子が出るならと、創価学会の会合に行ってみた。そこでは、同世代の子たちがミュージカル「アニー」の一幕を演じていた。真ん中に恵子がいた。
 
 お互いの家は全壊した。震災前とは全く違う生活。恵子だってつらいのに、一生懸命に歌って踊っていた。
 
 みんな大変な中なのに、みんな笑顔で。震災後の色あせた記憶の中で、私が初めて学会員に触れた場所には、希望があった。

長尾恵子さん
長尾恵子さん
◇長尾さんの手記
 周りから明るく見えても、本当の私(長尾さん)は自信なんてなかった。落ち込んでも、周りや家族を心配させたくない。両親が信心を頑張っているし、何かをつかみたくて、もがいていた。
 
 有紀(濵田さん)は、高校2年の時、私と共通の友達に誘われて会合に参加するようになった。私とも高等部員会に出たりした。
 
 私が創価大学1年の秋。有紀から電話が来た。看護の専門学校に不合格で浪人中。なのに元気な声で「家族を幸せにしたいから、信心やるわ」って。“え、ほんまに有紀なん?”って驚いた。いつも控えめで、何かを決めるのが苦手だったから。
 
 でも学会の人たちに励まされ、池田先生の言葉を通して、考え方が変わったらしい。周りの目を気にするより、“自分は、自分でいいんだ”って。
 
 有紀の入会からちょうど1年後。対話してきた私の友人が学会に入会した。それも有紀のおかげ。私に信心の確信をくれたのは有紀だったから。どんどん明るくなって、暗かった有紀がうそみたい。「人間革命」っていう言葉を実感できた。

濵田さん㊧が長尾さんの母・享子さん㊥、長尾さんと
濵田さん㊧が長尾さんの母・享子さん㊥、長尾さんと
ともに二人で
 濵田さんは看護学校の受験前後、長尾さん宅で題目を唱えた。長尾さんの母・享子さん(76)=区副婦人部長=がずっと寄り添ってくれた。長尾さんが関西創価高校に合格した時も、同じように祈って努力したと聞いて、勇気をもらったという。
 
 その後、大阪の専門学校に合格し、勉強を重ね看護師に。長尾さんは創大卒業後に兵庫に戻り就職。女子部のリーダーとして活動に励んでいく。
 
 大阪と神戸。違う場所にいても、年に1度は顔を合わせて、近況を語り合った。一昨年、濵田さんは古里・兵庫の病院へ。二人は初めて近くで学会活動ができることになった。
 
 濵田さんは「池田先生の指導を真っすぐに求める恵子の姿に、いつも刺激をもらってるんです」と。
 
 支え、支えられ、学び合いながら、復興の歩みの中で育った二人。「もっと池田先生の真心を一人一人に伝えたいね」。共に、希望あふれる兵庫の未来を描いている。

濵田さん
災害看護を目指して
 震災の朝。濵田さんは、ただただ怖かった。隣に住んでいた祖父母が、倒壊した家の下敷きに。祖父母が救出された時の気持ちは言葉にならない。
 
 避難した人であふれた体育館。看護師の母は、体調を崩した人のために動き回っていた。幼心に抱いてきた看護師という夢。「震災を経験し、思いは強くなりました」
 
 13年後、夢をかなえた。手術や抗がん剤治療、ターミナルケア。患者に寄り添い、命を守る仕事は充実していた。
 
 職場が救命救急センターになると、心が疲弊した。生と死の現場は一分一秒を争う。いつしか“何事もなく一日が終わりますように”とばかり願った。

 人の命を救うこと――その原点に戻らせてくれたのが、信心だった。関わり続けてくれた、地元の同志や白樺グループの先輩たち。濵田さんの2年後に入会し、理学療法士として働く妹・朱里さん=総県女子部書記長=の姿も励みになった。
 
 唱題を重ねると、祈りが変わった。“目の前の一人一人の患者さんに尽くし、力を出し切れる自分に”と。多くの蘇生の現場に立ち会うことができた。
 
 兵庫に戻り、現在は災害看護に力を入れる病院の集中治療室に勤める。交通事故、脳や心臓疾患の救急患者に尽くす日々。将来はDMAT(災害派遣医療チーム)を目指している。
 
 “災害があった時、被災者の役に立ちたい”。学会に入って、大好きになった言葉が二つある。「桜梅桃李」、そして「使命」だ。

長尾さん
励ましの母に続く
 あの日――。長尾さんが2階の崩れた家から抜け出すと、景色は一変していた。生き埋めになった近隣の人を家族で懸命に助けた。駆け付けた女子部員は泣き崩れた。活動拠点だった自宅に通い、よく励ましてくれたお姉さんだった。
 
 母は「大丈夫や! ここから、立ち上がるんや!」と。明日をも見えない中での母の姿が、長尾さんの心に焼き付いている。
 
 9カ月後。兵庫を訪れた池田先生は語った。「信心とは『無限の希望』を生む智慧である」と。翌日、母は同じ兵庫池田文化会館で開かれた「関西婦人部栄光大会」で体験発表を。

 「池田先生が贈ってくださる希望と勇気の指針を抱き締めて、愛するわが町、神戸復興への大前進を開始してまいります!」と元気いっぱいに語った。

 先生一筋に歩んだ母。背中を追うように、長尾さんも学会活動に励んできた。
 昨年、母が倒れた。「たこつぼ型心筋症」と診断され、安静に努める生活に。母のもとに、濵田さんが駆け付け、生活上のアドバイスをくれた。

 濵田さんの妹の朱里さんも来て、元気をくれた。後継の世代に勇気づけられ、母は今、病魔と闘う。
 
 「信心のつながりは、本当にすごいと思います。それを初めて感じたのが、25年前の震災でした。学会家族の温かさ、師匠のありがたさを学びました。全部、今の私につながってるんです」
 
 兵庫女子部の会合では、皆を盛り上げるムードメーカー的存在の長尾さん。絆を大切に希望の連帯を広げている。