〈みんなで学ぶ教学~新会員教室~〉16 三証 2018年6月2日
世に存在する多種多様な宗教。その中から、どうすれば、人々を真の幸福に導く正しい教えを選び取ることができるのか。今回の「みんなで学ぶ教学」では、正法を判定する“基準”である「三証」をテーマに学びます。
「御書」がよりどころ
――宗教の優劣を判別する基準はあるのでしょうか?
日本にはさまざまな宗教があります。大半の人は、それぞれの宗教の教義や違いに関心を抱かないかもしれません。
しかし、宗教は人々の生命や生活、そして社会に大きな影響を与えるので、「どの宗教を信じても一緒」というわけにはいきません。宗教の勝劣浅深を判別する普遍的な“物差し”が大切になります。
それが、「文証」「理証」「現証」の「三証」です。
――「文証」の「文」とは、文字に関することですか?
その通りです。「文証」とは、その宗教の教義が、よりどころとする経文、聖典のうえで裏付けをもっているかどうか、ということです。
大聖人は「経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよ」(御書482ページ)と、経典によらない教えを用いてはならないと戒められています。
仏教であれば、仏(釈尊)の教えによらなければなりません。
文証に基づかない教義は、しょせん、自分勝手な主張にほかなりません。
諸宗教の教えを寄せ集め、都合よく切り張りしたものを教義としている宗教もありますが、そうした事実自体が、その宗教が信ずるに足りないものであることを示しているといえるでしょう。
私たち創価学会にとって、文証とは、末法の御本仏・日蓮大聖人の「御書」に基づいているかどうかです。
現実に利益があるか
――「理証」の意味を教えてください。
「理証」とは、その宗教の教義や主張が道理にかなっているかどうか、ということです。御書には、「仏法と申すは道理なり」(1169ページ)とあります。仏法はどこまでも道理を重んじています。
地球上で、太陽が、東の方角から昇り、西に沈むことが不変であるように、いつの時代・社会にも通じる教義でなければ万人の納得は得られません。道理に外れた教義は用いてはならないのです。
――その上で、信仰の実践で得る体験には説得力があります。
御書には、「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468ページ)と記されています。「道理」が理証、「証文」が文証に当たります。この御文から分かる通り、大聖人が最も重視されたのが、「現証」です。
たとえ「文証」「理証」がそろっていたとしても、その宗教を実践した時に、現実の上で利益をもたらさなければ、観念論で終わってしまいます。
功徳あふれる実証を
――三つの観点で証拠が確かであれば、納得できますね。
三証のどれか一つが欠けても正しい宗教とはいえません。体調を崩して薬を処方してもらう場面を思い起こしてください。
薬の成分表や効能書きが明記されていることが、「文証」に例えられます。
薬が効能をもたらす確かな理由が「理証」です。
そして、実際に薬を服用して、体調が回復するという明確な結果が出ることが「現証」です。
――とても分かりやすい例えです。
草創期、創価学会の座談会は「大善生活実験証明座談会」と称していました。実験証明、すなわち実証がどう現れたか――この実体験を率直に語り合い、信仰の実践で得た喜びを共有することが広布の原動力となりました。
この精神は、今日、世界各地で行われる座談会でも受け継がれています。
御書根本に信心に励み、苦難を乗り越え、勝利した姿を示すことこそ、日蓮仏法の正しさを証明することにほかならない、と深く心に刻んでいきましょう。