2月の広布史 師弟不二の勝利「二月闘争」

2月の広布史 二月闘争

『新・人間革命』広布史に燦然と輝く戦い
1952(昭和27)年の2月、当時24歳だった若き池田名誉会長は、蒲田支部の支部幹事として、それまでの限界を大きく打ち破る「201世帯」の弘教を達成しました。これが広布史に燦然と輝く、伝統の「二月闘争」です。
当時、最も活力のある支部でも月に100世帯の弘教という時代にあって、この先駆の戦いが、全国の同志に勇気と確信を与え、波動を広げました。
この蒲田支部の「二月闘争」によって一つの壁を打ち破った学会は、この年、2万世帯を超え、翌1953年以降の広布の“飛翔期”へ盤石な基礎が築かれました。54年春には10万世帯を達成。56年には、池田名誉会長が中心となって指揮を執った「大阪の戦い」「山口闘争」などで大きく拡大し、同年末には50万世帯を突破します。そして、翌57年12月、ついに戸田第二代会長の願業である75万世帯の弘教が達成されたのです。

「師弟不二」の精神で打ち立てた金字塔
戸田第二代会長が就任した当時(1951<昭和26>年)、会員は約3000人。就任後9ヶ月たったときにも広布は遅々として進んでいませんでした。横一線に並んで進む雁(かりがね)行進を打ち破るためにはどうすればいいか。戸田第二代会長の心は決まっていました。「そろそろ大作を出すか」。そして、若き池田名誉会長が、蒲田支部の支部幹事に任命されたのです。
池田名誉会長は、次のように語っています。
「昭和27年、蒲田支部の支部幹事となった私は、広宣流布の共戦の同志に訴えた。『この2月、見事な勝利の結果をもって、戸田先生の誕生の月をお祝いしようではありませんか!』。24歳の生命は、真剣の炎、闘争の炎、執念の炎となって、第一線に躍り出た。まず自分が燃えることだ。冷たく黙したままの石でさえ、打ち合えば火花が生じる。いわんや、熱い魂と言葉をもった人間が打ち合うならば、心に火を灯せぬはずは絶対にない」
名誉会長の師を思う熱き心と、率先垂範の行動に皆が奮い立ち、それまでどの支部もなしえなかった広布の金字塔が打ち立てられたのです。
伝統の「二月闘争」を貫くものは、“断じて師の広宣流布の願業の突破口を開く”という名誉会長の弟子としての一念であり、「師弟不二」の精神であったと言えるでしょう。
コラム

誰よりも最前線で励まし続ける
当時、支部・地区・班・組という体制が整備されたばかりでした。池田名誉会長は、この最前線の組織である「組」(現在のブロック)に焦点を当て、弘教の明確な目標を示しました。そして、入会してまだ日の浅いメンバーを、「“新しい人”だからこそ“新しい力”を持っている」と励まし、一人ひとりの広布に戦う心を燃え上がらせていったのです。
また、この闘争では、これまでになかった「組」単位での折伏座談会が行われ、名誉会長はその組座談会を徹して回り抜き、一人ひとりを励ましました。そして、「全部自分のためになるからね」と勇気が湧き出る激励をし、最大限に称賛をしました。こうした名誉会長の行動は、メンバーにとって最大の励みとなり、「折伏は楽しい」と多くの友が次々と新たに立ち上がりました。
この喜びの連鎖が、壁を破る戦いにつながったのです。
参考資料

『人間革命』  第5巻「驀進」
『新・人間革命』  第3巻「平和の光」  第8巻「宝剣」
『随筆 勝利の光』